
朝、目を覚ましたら、あなたの体が巨大な虫のような姿になっていた。
あなたなら、最初に何を考えるでしょうか。
「どうしてこんな姿になったんだ?」
「病院へ行かなければ」
「もう元に戻れないのか?」
ところが、フランツ・カフカの『変身』の主人公グレゴール・ザムザが最初に心配したのは、もっと奇妙なことでした。
仕事に遅れる。
自分が人間ではないような姿になってしまったのに、彼は列車の時間や会社のことを気にしているのです。

なぜでしょうか。
ここに『変身』という物語を理解する最初の鍵があります。
グレゴールは旅行セールスマンとして働き、父親の借金を返しながら家族全員を養っていました。
仕事は好きではありません。
それでも辞められない。
自分が働かなければ、家族が生活できないからです。
つまりグレゴールは、虫のような姿になる前から、ある意味では自由ではなかったのです。
ちなみに「虫」と言いましたが、カフカはグレゴールが何の虫になったのかを明確には書いていません。
ゴキブリだと思われることもありますが、原文はもっと曖昧です。
ですから大切なのは、虫の種類を当てることではありません。
その姿になったことで、周囲の人たちがグレゴールをどう見るようになったか。
そこに注目してみましょう。
グレゴールが部屋から姿を現すと、家族は恐怖に包まれます。
会社から様子を見に来た人物も逃げ出します。
父親はグレゴールを部屋へ追い戻します。
昨日まで家族を支えていた息子が、一夜にして家族から世話をされる存在になってしまったのです。
それでも妹のグレーテは、最初は兄を助けようとします。
食べ物を運び、何なら食べられるのかを考え、部屋の世話もします。
グレゴールも妹をとても大切に思っていました。
実は彼には、グレーテを音楽学校へ行かせ、ヴァイオリンを学ばせてあげたいという夢までありました。
しかし時間がたつにつれ、家族の生活は変わっていきます。
グレゴールが働けないので、父親も、母親も、グレーテも、それぞれ働かなければならなくなります。
そして家族は少しずつ気づきます。
グレゴールが働かなくても、自分たちは生きていける。

一方、グレゴールの部屋はだんだん生活から切り離されていきます。
以前は彼の部屋だった場所が、やがて不要な物を置く場所のようになっていきます。
まるでグレゴール自身が、家族にとって「必要な人」から「置き場所に困る存在」へ変わっていくようです。
そして、非常に痛ましい事件が起きます。
父親がグレゴールにリンゴを投げつけるのです。
その一つが背中に深く食い込み、傷となって残ります。

かつて家族を守っていたグレゴール。
今では父親が、家族をグレゴールから守ろうとしている。
立場が完全に逆転してしまいました。
それでもグレゴールの中から、人間らしい感情が消えたわけではありません。
物語の終盤、グレーテが下宿人たちの前でヴァイオリンを演奏します。
その音楽を聞いたグレゴールは、部屋から引き寄せられるように出てきます。

これは『変身』の中でも、とても美しく、悲しい場面です。
姿はもう人間ではない。
言葉も家族には通じない。
それでも彼は音楽に心を動かされ、妹への愛情を持っている。
では、人間を人間にしているものとは何なのでしょうか。
外見でしょうか。
言葉でしょうか。
仕事でしょうか。
それとも、誰かを愛する心なのでしょうか。
しかしグレーテは、ついに限界を迎えます。
もう、この存在を兄だと思うことはできない。
このままでは家族が壊れてしまう。
グレゴールを家からいなくさせなければならないと訴えます。
ここで一つ、不思議なことに気づきます。
『変身』で変わったのは、本当にグレゴールだけなのでしょうか。
グレーテも変わりました。
父親も変わりました。
母親も変わりました。
そして家族そのものが変わりました。
グレゴールは自分の部屋へ戻ります。
そして家族のことを思いながら、静かに死んでいきます。
ところが、この物語にはさらに残酷な続きがあります。
グレゴールが死んだあと、家族も絶望して終わるわけではありません。
むしろ家族は外へ出ます。
仕事を休み、電車に乗り、これからの生活について話します。
両親は成長したグレーテを見て、娘にはこれから新しい人生があると考えます。
グレゴールがいなくなったことで、家族に未来が戻ってくるのです。

では、この物語は何を私たちに問いかけているのでしょうか。
一つは、
人間の価値は「役に立つこと」で決まるのか?
という問いです。
グレゴールは働いている間、家族にとって欠かせない存在でした。
働けなくなると、少しずつ負担になっていきます。
でもこれは、100年以上前の奇妙な物語だけの問題でしょうか。
仕事を失った人。
病気やけがで働けなくなった人。
年を取って介護が必要になった親。
会社で以前のような成果を出せなくなった人。
そしてこれからは、AIによって自分の仕事が必要とされなくなる人もいるかもしれません。
私たちは人に会うと、
「何をしている人ですか?」
「どんな仕事をしていますか?」
と尋ねます。
知らないうちに、人間そのものの価値と、その人が生み出す価値を同じものとして考えてはいないでしょうか。
もう一つは、もっと答えにくい問いです。
家族の愛には条件があるのでしょうか。
グレゴールの家族を、ただ冷酷だったと言って終わらせることもできません。
グレーテは最初、兄を一生懸命世話しました。
家族にも生活があります。
恐怖があります。
疲れがあります。
お金の問題もあります。
誰かを愛していることと、その人の世話に疲れてしまうことは、同時に起こるのかもしれません。
だからこそ『変身』は怖いのです。
巨大な虫が出てくるからではありません。
私たちにも、この家族と同じことが起こるかもしれないからです。
そしてカフカは、簡単な答えを教えてくれません。
だから最後に、一つだけ考えてみてください。
明日の朝、あなたがグレゴールのように変身する必要はありません。
ただ、働けなくなったとします。
お金を稼げない。
家族を助けられない。
誰かの役に立つこともできない。
それでもあなたは、昨日と同じあなたです。
では、
もし明日、あなたが誰の役にも立てなくなったとしても、あなたの価値は変わらないでしょうか?
主な登場人物
グレゴール・ザムザ
家族を養う旅行セールスマン。ある朝、巨大な虫のような姿に変わってしまう。
グレーテ・ザムザ
グレゴールの妹。最初は兄の世話をするが、物語が進むにつれて彼女自身も大きく変化していく。
ザムザ氏
グレゴールの父。息子の収入に頼っていたが、グレゴールが働けなくなったことで再び仕事に出る。
ザムザ夫人
グレゴールの母。息子への愛情を残しながらも、その変わり果てた姿への恐怖との間で揺れる。

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